私たちは、広く一般市民・企業・行政機関の皆さんと共に、温暖化対策に係る諸問題等に関する事業を行い、「京都議定書」の目標達成と環境再生保全に寄与するとともに、国の名勝に指定されている歴史的文化遺産である玉川上水堤のヤマザクラ並木である名勝小金井桜を名勝 小金井桜の会と協力して次代に適切に継承すると共に、全国にヤマザクラである小金井桜を広める活動を展開することを目的としています。
役員
理事長 | 日並洋一 |
副理事長 | 小沼廣和 |
定款
定款はこちら役員
理事長 | 日並洋一 |
副理事長 | 小沼廣和 |
定款
定款はこちら元文2年(1737年)、幕府の命により、府中押立村名主の川崎平右衛門定孝が奈良県吉野や茨城県桜川からヤマザクラの名品を取り寄せ、農民たちが協力して植樹しました。 文化~天保年間(1804~1844年)、多くの文人墨客が観桜に訪れ、『江戸名所図会』や広重の錦絵に描かれ、庶民の間にも有名になりました。
幕末の動乱期を経て、明治22年(1889年)に甲武鉄道(現JR中央線)が開通しました。花見時期には鉄道会社は武蔵小金井駅を臨時停車場として開設し割引切符を発行、臨時列車を増発し東京から花見客を誘致して数千人もの行楽客が訪れました。また、西武鉄道も花小金井駅を同時に新設しました。玉川上水付近の新田農家はにわかに花見茶屋に変身し、一年分の農業収入に匹敵するほどの稼ぎを得て、地域経済は大いに潤いました。
大正13年(1924年12月9日)桜博士として有名な三好学博士により、国の名勝史跡天然記念物として吉野山・桜川・御室と一緒に指定されました。昭和初期まで関東随一の花見の名所として賑わいました。
戦後は五日市街道の排気ガス・手入れ不足により並木の衰えは著しく、富士見桜や日の出桜といった多くの銘木が立ち枯れてしまいました。昭和40年代に入ると、小平監視所下流の玉川上水の通水が停止され、水道用水として使われなくなったため水路や桜並木の荒廃が始まり、わずか20数年でケヤキなどの雑木が繁茂し、荒れ果てた景観に変り果てました。日照不足や天敵のキノコ類の発生等により生育環境が悪化し、小金井桜は危機的状況になりました。